俳優 津田寛治インタビュー[漫画 ダブル連載記念企画]

『ダブル』は「役者が主人公の漫画」ということで、実際に演技の現場で活躍されている方々に取材をさせて頂いています。
今回お話を伺ったのは、北野映画や人気ドラマ『9係』シリーズでお馴染みの、俳優・津田寛治さん。
ヒーローズの読者の皆さんには『仮面ライダー龍騎』の大久保大介役でご存知の方も多いかもしれません。

実は『ダブル』の作者、野田彩子先生は津田さんの大ファン。
先生たっての希望での取材となりました。
そして、津田さんに取材を打診した理由はもう一つ。津田さんのマネージャーが業界でも有名な敏腕マネージャーだという噂を聞きつけたから……!

というわけで1月某日、津田寛治さんと、二人三脚で歩んできたマネージャー(兼、現事務所社長)の星久美子さんのお二人に、野田先生本人による取材を敢行。いったいどんなお話が聞けるのでしょうか。[編集部]

取材 / 野田彩子 構成 / 岩根彰子


初めての上京で、なぜか議員会館へ

野田:実は私、これまで何度か津田さんの出てらっしゃるトークイベントやサイン会に行ったことがあるんです。つい先日も『僕の帰る場所』のトークイベントに行きまして……。

津田:そうでしたか! ありがとうございます。

野田:そこでサインしていただくときに、漫画家をしていて今度役者ものの連載を始める予定なんですってお話をしたら、20年くらい前に仙台の劇団を舞台にした漫画が好きで読んでました、と教えてくださって。帰って調べてみたら、かどたひろしさんの『BLUE CITY』という作品でした。

津田:あれは、まず仙台が舞台っていうのがすごく新鮮だったんですよね。劇団っていうとどうしても東京中心じゃないですか。それが地方都市を舞台にしていて、かといって地方っぽい泥臭さがなく、垢抜けた感じだったのが際立っていたんです。いつか東京に出てやるっていうわけでもなく、ただそこでふわっとやってる感じがよかったなって。僕自身は地元の福井から上京してきて、鳴かず飛ばずの頃に読んでましたね。

野田:津田さんは高校を中退されて東京に出てこられたそうですが、そこで養成所か劇団に入られたんですか?

津田:そうですね。東京に行くと決めたものの、何のつてもなかったので、まずは他界した親父の友達で、仕事がらみでよく東京へ行っているおじさんにお願いして下見に連れていってもらったんです。彼は新聞関係の仕事をしていたんですが、いきなり議員会館に連れて行かれて、議員さんたちにかたっぱしから「こいつ俳優なんだけど、なんか仕事ねえか」って紹介されてね。「いや〜、演歌歌手ならあるんだけど」とか言われたり(笑)。

そのときに行った高円寺の飲食店で新劇系の劇団の若い人たちがアルバイトしていて、色々話を聞くと、まずは養成所なり劇団なり、行き先を決めてから出てきた方がいいよ、と。そこで田舎に帰って、彼らに教えてもらった『テアトロ』や『新劇』っていう演劇雑誌を取り寄せて募集要項を調べてみたものの、どこも10〜30万円くらいの入所金がかかるんですよね。そのなかで一か所だけ「入所金が分割可能」なところがあったんです。それが劇団東俳で、そこに入ろうと上京しました。東京では、そのおじさんが紹介してくれた沖縄料理屋に住み込みで働くことになって。住み込みといっても、要は店の座敷で寝泊まりするので、お客さんがいつまでたっても帰らないと寝られない(笑)。しかも閉店時間も決まってなかったので、結構つらかったです。そこで働きながら東俳の形ばかりの試験を受けて、しばらく通っていましたね。それが役者人生の始まりです。

野田:私、津田さんのインタビューは結構いろいろ読んでいるんですが、これは初めて聞くお話です。

津田:だいたい、たけしさんの話になっちゃいますからね。取材に来る皆さん口々に、「その話、知ってはいるんですけど、もう一回聞かせてもらっていいですか」って言われるんですよ。何回も「あのお話して」ってせがむ、寝る前の子どもみたいに(笑)。

野田:私もトークショーで2回ほど聞いているので、今日は絶対にそこは聞かないつもりで来ました(笑)。

役者を選んだというよりも、怖くてやめられなかった

野田:若い頃は、いろいろバイトをされていたそうですね。

津田:そうですね。18歳くらいのころは、一ヶ月単位で仕事を変えてました。
基本的に続かなかったんですよね。いま思うと俺、本当に飽き性だったんだなと。あとは単にダメな青年だった。一つのところにずっと通うのも、ずっと室内にいるのもダメなんですよ。だから外仕事でいろんな場所に行ける、たとえば建設現場の仕事はすごく好きだったし、俳優の仕事もどちらかというとそれが好きなんです。外ロケでいろんな場所に行けるのが楽しくて、だから舞台よりも映像の仕事をやっているようなところもあります。

野田:『ダブル』という漫画の主人公も、仕事が続かなそうなキャラクターなんです。それこそ、お芝居以外はちょっと人間的に問題があるような。

津田:そういう人っていっぱいいますよね。エンケン(遠藤憲一)さんとか、寺島(進)さんもそうですけど、俳優やってなかったら確実に社会からドロップアウトしてるだろうなっていう(笑)。もちろん僕もその一人なんですけど。だから、この仕事を“選んだ”というよりは、この道から外れたら多分人生終わってしまうから怖くてやめられないっていうのが本当のところだと思います。昔、劇団の仲間が「俺もそろそろ30近いから実家を継ぐよ」とか「結婚するんだ」といって辞めていく姿を見ると、勇気あるなあと思って心の底から尊敬できたんですよね。30代になってから社会で働いたり家族を持ったりするのって、大変なのはわかりきってる。でもそこに向かう決意をしたことに対して尊敬しかなかったし、まだそこまで勇気が持てずにだらだら役者を続けている自分が恥ずかしかった。当時はこの先、道が拓けるなんて思っていなくて、芝居は完全に逃げ場だったんです。とりあえず夢を持って生きているという大義名分が持てるし、世間にも言い訳が立つじゃないですか。

野田:漫画家にもそういう人は多いですよ。そもそも私がそうなんです。いわゆる会社的なところできちんと働いたことがない。アルバイトの経験しかないまま漫画を描いて、デビューして、お仕事をいただいてっていう感じなので。それで私もいま31歳なんですが、この年になって普通の会社勤めのようなお仕事って、もう絶対にできないだろうなって。だからちゃんと外へ働きに出て、他人と一緒に仕事をしてる人って偉大だなと思います。

津田:俺もようやく食えるようになったのは35歳。だから31歳のころなんて、本当にバリバリ、フリーターみたいな感じでしたよ。そういえば、ちょうどその頃、昔の書類を整理してたら、A4の紙にワープロの一番大きな字で「津田寛治 25歳 無職」って印字された紙を見つけたことがあったんです。多分、初めてワープロを買って、どれくらい大きな字が出せるか試し刷りしたものだったんですよね。それを見て「当時の俺は25歳で無職なことを恥じてたんだ!」と思い至った自分が30代前半でまだ無職だったという(笑)。そのときは「25歳で無職なんて、まだ全然オッケーだよ!」としみじみ思いましたね。

星マネージャーとの出会い

野田:津田さんと星さんが出会ったのはどういうきっかけだったんですか?

津田:知り合いのプロデューサーが紹介してくれたんです。ずっとフリーでやっていたから、「フリーもいいけど、本気で食って行くんだったらマネージャーがいた方がいいから紹介してやるよ」って。星さんはそのプロデューサーの現場で制作をされていた方の奥さんだったんですね。

:当時、私は大手の芸能事務所を辞めてフリーでした。その時、フリーで活動している津田寛治さんを紹介されて、フリー同士という形でスタートしました。寛治さんは、その当時はほとんど無名の俳優だったので、テレビ局やプロデューサーに営業にまわっても「知らない」と言われて門前払いでした。目の前でプロフィールを捨てられてしまった事もありました。しかも、寛治さんは映画がメインの俳優で、私はテレビをメインに仕事をしていたマネージャーだったので、あまりにも映画を知らな過ぎて最初はとても苦労しましたが、それも楽しかった思い出です。

角川映画が大好きで、映画はそれぐらいしか観ていなかったんです。そこでまず、寛治さんに出演をした映画を聞いて、それをかたっぱしから観るという事から始めました。
そして、その作品の中から【津田寛治を捜す】という作業をしたのです。出演シーンを勝手に編集してプロフィール映像を作ったりしていました。

津田:星さんの得意なテレビが俺の弱点だったけど、そんな姿を見て「恥をかいてもいいからテレビをもっとやらなきゃいけない」と思いました。まあそういう関係がずっと続いているんですね。

:マネージャーに対してこんな風に言ってくれる人って、俳優ではなかなかいないと思うんです。
だから寛治さんと出会った時に、テレビを一旦諦められたんですよね。寛治さんと一緒に映画の世界を突き進んでみようって。

(津田寛治インタビュー(2/3)「『模倣犯』そしてブレイク」に続く)